一年ぶりにバーに行って飲んだ。畏友S君とさまざまな話をして大いに盛り上がる。お互いの知識や経験を総動員して語り合い、新たな解釈や考えが生み出される瞬間はなにものにも代えがたい快感である。もちろん消化不良になったり、理解しあえないまま議論が終わることもある(それはたいてい僕の頭の悪さが起因している)。しかし、だからこそ自分たちが想定しえなかった「言葉」や「表現」をようやく発見したとき、僕らは強烈な刺激を受けて感電する。一体これは何なんだろう。別にそうなったからといって、金が儲かるわけでもないし、会社で出世できるわけでもない。むしろそういった価値観からもっとも遠くに位置し、非合理の塊として存在しているような気がする。それなのに楽しくてしょうがない。
そもそも「私」の世界に対する認識と「あなた」の世界に対する認識は必ずしも合致しておらず、だとすれば認識というものはすべて例外なく恣意的な解釈に過ぎないということになる。恣意的な解釈は他者への想像力を遮断し相互理解を阻害する。つまり、人と人とは解りあえないという前提で僕らは世界を生きている。否生きなければならない。それなのに相互理解の困難に無自覚な者が世の中には多い気がする。「みんなが話し合えば世界から戦争はなくなり平和になる」なんて能天気なことを言うヤツが出てくる。そして、そういうヤツに限って戦争に横たわるイデオロギーや思想、宗教性にまったく無知で、あまつさえ政治に無関心だったりする。きっとこれは「人と人とは解かり合える」という幻想にとりつかれている者の甘えなのだ。相互理解の困難が宿命であることを徹底的に自覚し、それでも希求する態度こそ大事なはずなのに、そこがすっぽりと抜け落ちている。相手を理解し、自分のことを理解してもらいたいならまずはこのことを知らなければならない。自戒を込めて書いてみた。